沿革


「京都大学農学部七十年史」より

1. 古賀正巳・可知貫一教授時代(1924~1945年)
 この講座は,1924(大正 13) 年農林工学第二講座として発足した.当時の講座の担当内容は,土地改良学及び耕地整理論であり,初代の担当教授は古賀正巳であった.古賀は病気がちであり,1936(昭和 11) 年に退官した.後任には,農林技師(国営巨椋池干拓事業所所長)可知貫一が就任し,1945 年までこの講座を担任した.
 古賀は,1927(昭和 2)年本学部摂津農場の設計に参画し,暗渠排水およびパイプ灌漑施設の設置に主導的役割を果たした.従来,本農場の果樹園は地下水位が高かったが,この暗渠排水による地下水の排除と地下水位の低下によって現在のような良好な耕地に改良され,各種の試験が可能になった.現在では暗渠排水技術は,圃場排水の一般的技術として確立されているが,当時,相当の規模を有する果樹園に対し,組織的に暗渠排水工事を実施した例は,本邦での嚆矢であった.
 続いて,干拓地の除塩を必要とする特殊土壌に対してモグラ暗渠が適切であると考え,その穿孔機を作成した.そして,国内および朝鮮において実地試験を行った.さらに,摂津農場における暗渠排水試験を続行し,助教授狩野徳太郎(後農林省農業技術研究所農業土木部長)は古賀の指導の下に,暗渠排水施工後の地下水位変動と降雨時の暗渠排水量の調査・研究を行った.
 1934(昭和9)年,可知貫一は講師となり,そして 1937年8月,古賀の後任として本講座の教授に就任した.前述の研究は,可知にも引き継がれ,裏作物ならびに一般畑作物に対する適正地下水位の研究として,圃場実験を中心にして行われた.
 一方,山間地や東北地方の冷害を契機にして,灌漑水温と稲作に関する研究が開始された.この研究には助教授鳥居菅生があたった.まず,灌漑期の貯水池水位および水温の深さ別変化を明らかにし,貯水池からの取水に合理的な根拠を与えた.
 可知は農林技師を経験したこともあって,広い地域を対象とする実際問題に対しても研究指導にあたった.栃木県那須野原の地下水について,詳細な調査研究をまとめて,1944(昭和 19)年には『地下水強化と農業水利』(地人書館)という大著を公表した.
 排水改良は,圃場を対象とした暗渠排水のみでは不十分であり,地区全体の外域の水位低下が必要なことと考え,大型のポンプ排水の研究に進んだ.当時,海岸地域や大河川の沿岸地域の低湿地は肥沃な土壌であるにもかかわらず,排水不良のために裏作が不可能な所が多かった.これを改良することは,当時の国情からは緊急のことであった.
 さらに,満州国内における日本開拓民の耕地開発が急を告げるところとなり,可知は同国内の湿地・アルカリ地など未開発の土地改良事業の指導にあたった.そして,同国の委嘱を受け,1938(昭和 13)年以降数次にわたって現地に渡り,開発計画に対して意見を開陳し,学会にその所見を報告した.

2. 大枝益賢教授時代(1945~1961年)
 1945(昭和 20)年,可知が退官するに及んで,一時,農林工学第一講座担任の高月豊一教授が本講座を併任した.当時講師であった富士岡義一は,高月の指導のもとに,水稲田用水量に関する詳細な研究を進め,種々の新知見を発表した.これは,わが国の水稲田用水量合理的決定の根拠となり,この方式が農林省の計画設計基準に採用された.そして,今日まで実際に活用されている.
 1949(昭和 24)年,大枝益賢が本講座を担当することになった.大枝は,灌漑排水学は,地表水・地下水を一連のものとして考えるべきであるとして,灌漑排水地域の地下水研究に着手した.地下水研究の手段として,全国に先駆けて放射性同位元素を取り上げ,トレーサーとしてこれを用いた.この研究は,大枝のもとに講師富士岡,助手桂山幸典(後京都大学名誉教授)が担当し,海岸地下水や河川伏流水,干拓地帯の淡水・海水の動態解明にこれを応用した.
 一方,高月の兼担時代に開始された,河川水温に関する研究は,助教授高橋一郎(後近畿大学教授),助手手島三二 (後 大阪府立大学名誉教授)に引き継がれ,当時問題となっていた富山県黒部川の貯水池築造,トンネル送水と河川水温の解明に貢献した.
 さらに,富士岡が分担していた水稲田用水量の研究は,水田土壌中の浸透機構の研究に発展し,成層土壌中の降下浸透に関する研究に大きく寄与した.そして,降下浸透中の負圧発生機構の解明へと進み,透水係数の現場測定に関する研究ともあいまって,1957(昭和32)年,農業土木学会学術賞を受賞することとなった.
 一方,洪水流出や水利用の基礎となる山地流域からの流出機構の研究にも着手した.これは,助手手島が担当した.本学演習林上賀茂試験地を舞台に,量水堰による詳細な流量測定と試験地内のライシメータ試験,土壌断面調査に基づいて,物理的な根拠に基づいた流出機構の研究を行った.これは今日の物理水文学の嚆矢といえるものであり,1965(昭和 40)年手島は農業土木学会奨励賞を受賞した.
 水田用水量,ことに浸透量には,水稲生産にとって適正な値が存在するはずであるという考えのもとに,大枝は適正浸透に関する研究を五十崎恒(後岐阜大学名誉教授)に分担させた.五十崎は岐阜県本巣郡における現地調査から,適正浸透が存在することを見い出した.この概念は今日,東南アジア諸国まで広く参考にされている.

3. 富士岡義一教授時代 (1961~1973 年)
 1960(昭和 35)年,大枝の退官にともない,1961年2月,富士岡義一が後任教授として講座を担任した.富士岡は,従来からの水稲田の用水量に関する研究を進めるとともに,国家的要請が強くなってきた水資源有効利用の立場から,灌漑効率の増進に関する研究を展開させた.まず,漏水田の改良に関する研究として,講師長堀金造(後岡山大学名誉教授)に「ベントナイト客土」に関する一連の研究を行わせた.その結果,ベントナイト客土の学問・技術体系を確立した長堀に対して1964 年農業土木学会奨励賞が授与された.
 さらに,水稲田用水量の研究は,水稲の蒸発散に関する研究に発展した.蒸発散を単に水蒸気の流れとしてとらえるのみでなく, 熱移動をもともなう現象としてとらえ,新しい蒸発散研究の分野を開拓した. 大学院生松田松二(後信州大学名誉教授)はこれを分担し,のちに1966 年農業土木学会奨励賞を受けることとなった.
 一方,畑地灌漑に関する研究も展開した.富士岡は,わが国の畑地灌漑は,湿潤地帯の畑地灌漑体系であり,世界に一般的にみられる乾燥地帯の体系とは大きく異なることを強く指摘した.これは,畑地灌漑施設の多目的利用への契機となり,今日広く利用されているスプリンクラーによる薬剤散布や凍霜害防止の研究の動機を与えることとなった.
 畑地灌漑に関する研究は,土壌水分の精確な測定が基本となることから,石膏ブロックやファイバーグラスユニットによる土壌水分測定の研究も展開された.この研究は,大学院生西出勤(後岐阜大学名誉教授)が分担した.この畑地灌漑の研究は,樹園地での消費水量の研究へと展開した.大学院生海田能宏(後,京都大学名誉教授)はこれを分担し,和歌山県有田郡の果樹園において詳細な研究をまとめた.この成果は,今日でも精度において群を抜いており,広く引用されている.
 当時,農業近代化のために圃場排水が重要な研究課題として取り上げられ,その基礎として粘質土壌の物理性に関する研究も展開された.助手佐藤晃一(後愛媛大学名誉教授)は,粘質土壌のクラックについて研究し,その発生機構・形態および内部での蒸発について研究した.また助教授丸山利輔は,同じく粘質土壌の排水問題について研究し,排水に果たすクラックおよび埋め戻し部の役割,クラックの発生機構やその内部の水の流動抵抗などについて研究した.これらの成果は,現在土地改良事業計画設計基準(暗渠排水)に採用され実際に役立っている.
 このように活発な研究活動を展開した富士岡は,1973(昭和 48)年1月11日,脳溢血のため,京都駅において不帰の客となった.灌漑排水学確立という大きな仕事を完成させようとした矢先の出来事だけに,関係者一同の悲しみは大きかった.
 なお,本講座は 1963(昭和 38)年,講座名変更により,従前の農業工学第二講座から,その内容を示す「土地改良学及び農地造成学講座」に改められた.さらに,1966年,「農地計画学講座」の増設にともない,「かんがい排水学講座」となった.

4. 丸山利輔教授時代(1973~1997年)
 富士岡教授の急逝にともない,1973(昭和 48)年8月,丸山利輔が後任教授として本講座を担任することとなった。
 丸山は,灌漑排水学を単なる技術ではなく,学問として成立させ,若い研究者にも魅力あるものにするためには,いかなるコンセプトのもとに研究を進めるべきかを考えた.そして,この学は,自然の水循環を補完するという考えのもとに進めるべきであるという考えのもとに,この学をより奥の深いものにするためには,その基礎である自然の水循環に対する理解を深めるための研究を進めることが重要であるとした.
 このような考えに基づき,まず富士岡時代からの研究テーマのひとつである流出解析に関する研究を続行し,低水解析に対して「重みつき最小二乗法による単位図法」の適用を提案した.これはそれまでの単純な最小二乗法の適用による単位図決定法を低水解析のために一歩進めたものであった.また,「複合タンクモデル法」を提案し,助手小林慎太郎(後京都大学名誉教授)はこれを広域の水需要分析に適用した.
 一方,助教授三野徹(後京都大学名誉教授)は当時,灌漑用パイプラインシステムの最適設計について,精力的に研究を展開した.滋賀県長浜地区等を事例として,パイプラインシステムの分割と統合の得失について分析を行った.また,コストポテンシャル概念を提案して,パイプラインの容量と落差配分に対して,最適設計のための新しい手法を開発した.この研究には,1976(昭和51)年農業土木学会奨励賞が与えられた.
 土壌物理に関する研究も展開された。大学院生石田智之(後香川大学助教授)は土壌中の熱伝導に対するユニークなモデルを提案した.
 地下水に関する研究も進めた.濃尾平野を事例地区として,都市化にともなう地下水循環の変化を研究した.これは、当時大きな問題となっていた濃尾平野の地盤沈下問題と関係することもあって,各方面から大きな関心が寄せられた.この研究で使った帯水層定数の最適同定の手法は,その後多くの研究者の採用するところとなった.なお,この研究は文字どおり研究室全員の共同研究であった.その後,大学院生藤縄克之(後信州大学名誉教授)は,山科盆地を事例地区として地下水流動の分析を行い,助手堀野治彦は,野洲川下流地区・愛知川扇状地を事例地区として地下水流動の分析を行った.堀野はこの研究に対し1992(平成4)年地下水学会奨励賞を受けた.
 さらに,地表近傍の熱収支に関する研究も展開された.これは,前述した松田による水稲蒸発散の研究を発展させたものともいえる.まず,大学院生三浦健志(後岡山大学名誉教授)は,助教授三野と共同して,傾斜地における熱分配構造と蒸発散に関する研究を行い,傾斜地における土地利用に対して有用な知見を与えた.また,大学院生大槻恭一(現九州大学教授)は,蒸発散研究にわが国で初めて補完法を導入し,広域蒸発散の推定に大きく貢献した.この研究は1990(平成 2)年農業土木学会奨励賞を受けた.さらに大学院生サイードJ. A. (後タブリーズ大学(イラン)助教授)は,水稲の蒸発散を詳細に研究し,水稲蒸発散はポテンシャル蒸発を上回ること,場合によっては純放射フラックスを上回ることを明らかにした.
 兼業化や都市化にともなって,水田における水需要が単純な自然的現象ではなくなり,複雑な社会的要因にも影響を受けるところとなった.このために,改めて水田の用水需要構造の研究が開始された.この研究は主として助教授渡邉紹裕が分担した.滋賀県湖東の各地区での調査結果を用いて,栽培管理用水量・圃場有効雨量の研究を行った.この成果は学会でも高く評価され,1989(平成元)年農業土木学会賞奨励賞を受けた.また,丸山はそれまでに分担した研究成果を「水循環の素過程に関する一連の研究」としてまとめ,1992 年農業土木学会学術賞を受けた.
 この時代には,以上のように活発な研究展開が行われたが,研究室運営についても特筆しておかなければならないことがある.それは,週1回の割合で行われる通常のゼミナールとは別に,「大ゼミ」と呼ばれる春秋年2回のゼミナールを持ったことである.ここでは,教授から大学院生まで半年間に行った研究をまとめて2日間にわたって発表・討議される.これによって,大学院生は研究のポイントを理解することができ,教授も決して気を抜くことはできない.この時代に発表された論文は,ほとんどすべてこの「大ゼミ」の討議を得たもので,研究活動の活性化に大いに役立った.このゼミナールは,丸山が教授に着任した1973 年秋に始まり,今日まで休むことなく年2回の割合で続けられている.
 一方,富士岡教授時代から今日まで,農林水産省および同各農政局・調査事務所等からその時期に問題となっている事項について委託を受け,現場で発生する具体的課題に答えてきた.また,農林水産省が中心となって実施する土地改良計画設計基準の改訂に積極的に参画して,研究成果の現場への適用に対しても積極的な役割を果してきた.

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